雫石町指定文化財 有形文化財(歴史資料)旧秋田街道国見峠の盛岡領境の石標

公開日 2020年04月07日

更新日 2020年09月08日

旧秋田街道国見峠の盛岡領境の石標(きゅうあきたかいどうくにみとうげのもりおかりょうざかいのせきひょう)

旧秋田街道国見峠の盛岡領境の石標.JPG

  

【所在地】
  雫石町橋場龍川山国有林内

【所有者・管理者名】
 

【指定年月日】
  平成30(2018)年6月20日

【年号】

 嘉永二年(1849年)

【大きさ】

 30cm×30cm×164cm

 

 


                                                            
【概要】
 元和元(1615)年から、南部(盛岡)藩と秋田(久保田)藩の間の境界争いが18年間も続いていたが、寛永10(1633)年に幕府巡見使の裁定により国見峠と的方の両方に一つずつ境塚を築き、国見峠より的方の間の峰切(嶺点)を両藩の境とすると定められた。藩境の標識については、寛永10(1633)年の境塚築造の際の記録はなく、天明7(1787)年に立て替えられている。文化2(1805)年には、古人たちにより「国見峠に高さ7尺7寸の木柱の御境柱がある」と書き上げられている。その後、嘉永2(1849)年に木の境柱を花崗岩の石柱に替えたものが、この石標である。この石柱は、盛岡で調製され、「従是北東盛岡領」と刻まれており、盛岡から雫石までの運搬は盛岡の人々が分担し、雫石から国見峠まで運び立て替えることは雫石通りが分担した。この工事に、約314人の人足を要し、その雇代として約36貫文の費用がかかったとされる。

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