町のあゆみ

 この雫石郷には、先史時代から既に人々が定着し生活を営んでいました。文書として記録されているものはありませんが、町内各所で発掘される遺跡、遺物がそれを明確に物語っています。
 中世になると、文書に「雫石」の地名が登場するようになり、文治5年(1190年)には源頼朝が奥州の豪族藤原氏一族を平泉に滅ぼした際、岩手の西部の一部を配下の戸沢衡盛に与えたとあり、雫石郷もその支配下となりました。これが古文書に記録される、当地方最初の領主ということになります。
 戸沢氏は南北朝時代、南朝方として活躍した人物で、興国年代には一時北畠顕信卿が滴石城に拠せられたこともありました。
 天文9年(1540年)、戸沢氏は三戸南部氏の一族、南部高信に攻略され、羽州仙北に落ち、以降南部氏の領有となったのですが、時は群雄割拠の時代とあって奥州にも内乱が多く、県北地方の乱があった際に、一時日詰斯波が当郷を支配しました。
 しかし天正14年(1586年)南部信直の代になって斯波氏を降し、再び南部氏領となり以降285年間続きました。南部氏は代官所を前の町役場付近(現在の中町公園)に置き治安にあたったとあります。
 明治維新の廃藩置県によって盛岡県に所属。明治5年(1872年)には、南畑、鴬宿、繋、西安庭、橋場、上野、御明神、雫石、西根、長山の10カ村の行政区画(村)に分かれ、同22年(1889年)町村制施行まで続きました。この間、県名は岩手と改められるなど、現在の雫石町の基礎となる行政区画が確立した時代でもありました。
 町村制施行後は、雫石、御所、御明神、西山の4カ村に統合され、昭和15年(1940年)に雫石が村から町に昇格したほか、1町3カ村体制が66年間にわたって続きました。
 同30年4月1日(1955年)に町村合併促進法によって、1町3カ村が合併して新生「雫石町」が誕生し、今日に至っています。
 豊かな自然と共生した快適な生活環境の確保を図りながら、農業・観光を中心とした魅力ある産業の創出と創造性豊かな人づくりと、町の位置づけの優位性を活かした交流・連携を進め、自立する持続可能な「次世代のまちづくり」を推進しています。